天安門
総面積40万平方メートル。世界で最も広い広場のひとつです。一度に五十万人を収容でき、南北は天安門から正陽門までの880メートルです。東西は、人民大会堂から歴史博物館までの500メートルです。明清時代には皇帝の即位などに使われる聖なる場所でした。明・清の時代の地図に描かれている現在の広場は、南北に長い「T」字型で、両側には役所が並んでいました。1911年の辛亥革命以後一般に公開されるようになり、49年の建国の式典の時には広場として整備され、58年には人民英雄記念碑が、建国十周年の記念には人民大会堂、歴史博物館、革命博物館が、そして77年には毛主席記念堂が建てられ現在の姿になりました。国旗掲揚のためのスペースが設けられており、毎日、儀仗兵により掲揚と降旗の儀式が執り行われています。掲揚は日の出の時間、降旗は日の入りの時間と定められています。
前門
天安門の南に面した前門大街は、570年の歴史を誇る大通りです。前門大街は、歴史上の5回目の修復を終えたばかりです。
「牌楼」と呼ばれる鳥居形の建造物は、古い北京の独特の景観を形づくっています。昔、北京っ子は前門大街のことを「五牌楼」と呼びました。なぜなら当時の「牌楼」は普通、門の出入り口が3つだったが、前門の「牌楼」だけは5つあったからです。1958年運行が停止された「当当車」(チンチン電車)も前門大街に復活しました。「当当車」は、電車の先頭に銅製の鈴をつけ、運転手がペダルを踏むと、鈴が「チンチン」と鳴り、通行人に道を開けるように促すところからこの名前がついたといわれています。
大柵欄
大柵欄は名前のとおり大きな柵(門)があった街。前門大街から西に折れて入っていく横道です。ここはいわゆる悪所で、往時は妓子を置いた酒店、飯店が並んでいました。治安のためと、もしかすると妓子の逃亡防止のためかもしれないが、夜間にはその門が閉められていたようです。今では当時の面影はありません。比較的狭めの路に、食堂や各種雑貨、CDショップや衣料品店などさまざまな店が並んでいます。また旧城内の胡同がほとんど直線で構成されているのに比べ、前門付近には曲がりくねった細い道の両側に、一般家庭の門戸が並んでいるような胡同が多いところです。
琉璃廠
琉璃場文化商業街の古風な町に歩き、旅行者の古い北京に関する記憶を呼び戻そうと力を尽くしています。元代、朝廷は大都市を作ろうとして、海王村(現在の琉璃工場付近)に宮廷御用のカラーの琉璃レンガを焼く琉璃工場を設置しました。古くから仏教でいう七宝の一つ「琉璃」。デザインも本場中国ならでは、全て吉祥にかかわる縁起のいいものとなっています。
      1